今日から新シリーズ、「知られざるチェコ人」をスタートさせます。知られざるとしておりますがもしかしたらその分野では超有名人かもしれません。その場合はご容赦下さい。
記念すべき第一回目は建築家のアントニン・レーモンド(Antonín Raymond)です。チェコ人の建築家と言えば原爆ドーム(広島県産業奨励館)のヤン・レッツェルが有名ですが逆にレッツェルは意外とチェコでは無名です。
アントニン・レーモンドは1888年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国領ボヘミア王国(現在のチェコ共和国)のクラドノ生まれ。父親はユダヤ系の商売人、母親はカトリック教徒だったそうです。出生時の氏名はアントニン・ライマン(Antonín Reimann)でした。尚、ライマンはドイツ風の苗字なので父親の先祖はドイツ出身だと推測できます。
母親の死去と父親の事業失敗の後、一家は1905年にプラハに移り住みます。そして1906年にアントニンは現在のチェコ工科大学(CVUT)に入学し、建築学を学びます。大学卒業と同時に渡米し、ニューヨークの著名な建築家、キャス・ギルバートの下で3年契約で働き始めます。1916年の初頭には米国市民権を得て、帰化する際にライマンからレーモンドに改名致します。私の推測ですが1916年は第一次世界大戦真っ只中。ドイツ風の苗字だと活動しにくかったのかもしれません。その前の1914年にフランス生まれの米国人女性、ノエミと結婚します。尚、ノエミは芸術家兼デザイナーであり、コロンビア大学では日本芸術を学んでおりました。
その後レーモンドはフランク・ロイド・ライトの下で働くようになり、暫くして米国陸軍に入隊しますが、除隊後ライトは東京の帝国ホテル建設のためにレイモンドを同行させます。1919年にレーモンドは初来日するのですが、一年ほどでレーモンドはライトのやり方に共感できずにいました。レーモンドはライトのデザインが日本の風土や気候、そして文化に合っていないと考えるようになりました。ライトは煉瓦や大谷石を好んだの対して、レーモンドはギルバートの下で学んだコンクリート造りに多いなる可能性を見ておりました。
レーモンドはライトの下で残る意思がありましたが結局1921年1月に解雇されます。そこで彼は同年の2月には別のアメリカ人と共同で建築事務所を東京で設立します。
その時の建築事務所は1923年にレーモンド建築事務所に改名。レーモンド死後も存続し、現在に至ります。
(尚、レーモンドが独立した年は建築会社のHPだと1920年。英語のウィキペディアだと1921年。日本語のウィキペディアだと1922年になっております。)
つづく
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