top of page

アントニン・レーモンド②

フランク・ロイド・ライトの下を去ったレーモンドですが、東京で建築事務所を設立します。しかし、独立してもライトの影響を引きずっておりました。それらは低く、寄棟造、そして張り出したひさしが特徴です。その他にチェコのキュービズムにも興味を持っていました。ライトの影響下を抜けるのは1923年に起こった関東大震災で麻布の自宅を失ったレーモンドは霊南坂の家を建築してからです。こちらでは雨といの代わりに鎖といを使用しております。


1916年に米国市民になったレーモンドですが、1926年から1939年の間はチェコスロバキア政府によってチェコスロバキア名誉領事に任命されます。名誉領事職が解かれたのは本国チェコスロバキアがミュンヘン合意によりナチス・ドイツに併合されたからです。1928年から1930年の間には米国、フランス、ソ連の核大使館の設計と立て直しに従事しております。


1938年、レーモンド一家は僧院宿舎建設のため、当時の仏領インドのポンディシェリに渡航します。このスリ・オーロビンド・ゴーズ僧院宿舎は現存し、インド亜大陸初のモダニズム建築だと言われております。インドでの任務を終えたレーモンドは日本に戻らず、プラハを経由して米国に行きます。ペンシルバニア州ニュー・ホープで土地を購入し、農家に増改築をした事務所を構えます。カレーモンドとデザイナーである彼の妻のノエミの目標はインターナショナルスタイル様式に伝統的な日本の工芸技法を用いることでした。


そんな時にレーモンドに近づいたのは米国陸軍航空隊でした。1943年にユタ州ダグウェイ実験場に日本村を造った米軍はレーモンドに日本家屋を設計させました。日本村は米国の爆撃機が投下する焼夷弾の威力及び戦術を研究するためでした。レーモンドは後に自書でこの設計に参加したことを後悔しております。


戦後日本に戻ったレーモンドは1951年に建設コンサルタント「パシフィックコンサルタンツ」に共同出資。東京・西麻布に土地を購入し、新しい住居兼事務所を建てます。1973年に米国に帰国し、1976年に死去。


レーモンドの代表作

旧イタリア大使館日光別邸(現在のイタリア大使館別荘記念公園)

東京女子大学本館

群馬音楽センター

新発田カトリック教会

軽井沢の夏の家

などなど








logo ST full en RGB.jpg

©2024 by Japan Czech Association/Japan Slovak Association. 

www.japan-cz-sk.com    info@japan-cz-sk.com

無断転載・無断複製を禁じます。

Special thanks to SLOVAKIA TRAVEL  for providing photos. 

NEW LOGO_edited.jpg
mightywine.png
bottom of page