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知られざるスロバキア人

  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

知られざるスロバキア人シリーズ、第一弾。


ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク

Milan Rastislav Štefánik


ミラン・シュテファーニク(スロバキア大使館から提供)
ミラン・シュテファーニク(スロバキア大使館のご提供)

シュテファーニクはチェコスロバキア独立運動の中心の一人です。

チェコスロバキアの独立運動と言えばチェコスロバキアの初代大統領のマサリクや二代目の大統領のベネシュが著名ですがこの二人はチェコ人であり、シュテファーニクはスロバキア人です。マサリクとベネシュは政治面の指導者ですが、シュテファーニクは軍事面の指導者の一面が強かったと思います。チェコスロバキア初代戦争大臣。


1880年7月21日に当時のオーストリア・ハンガリー帝国のハンガリー王国内のコシャリスカー(現在はスロバキア領内)に生まれたシュテファーニクはプラハのカレル大学でも勉強しており、そこの哲学の授業で教壇に立っていたマサリクと出会います。1904年に卒業し、天文学の仕事を探しにフランス・パリに向かいます。お金もなく、フランス語も出来ないシュテファーニクでしたがパリ天文台で働けることになりました。


パリ天文台の職を紹介してくれた恩人が亡くなるとシュテファーニクは職を失います。しかし、それまでに天文学と気象学の実績が出来ていたシュテファーニクにフランス当局は別の任務を与えます。米国、インド、オーストラリア、ブラジル、モロッコのほかにも太平洋のフィジー、トンガやタヒチに派遣されます。そこでは日食の研究観測がメインでしたが、タヒチでは天文台の建設や気象観測所のネットワーク作りに関わりました。噂では長く太平洋にいたのは当日のドイツ軍の動きを見るためのスパイだったそうです。ドイツは第一次世界大戦まで太平洋に幾つもの植民地や保護領を保持しておりました(WWⅠで敗戦したドイツは全ての植民地及び保護領を没収され、日本の委任統治領となります。例:サイパンやパラオ。)


シュテファーニクの努力と実績もあり、1912年にはフランスの市民権を取得。第一次世界大戦が勃発し、オーストリア・ハンガリー帝国及びドイツ帝国が負ければ、スロバキア人やチェコ人は戦後独立できると考えた彼は、フランス陸軍に入隊し、戦闘機のパイロットしての訓練を受けます。1915年5月には敵領地に30回も出撃。セルビアでの軍事行動は失敗に終わるのですが、そこで深刻な病になったシュテファーニクは世界で最初の医療後送された最初に人物になったみたいです。


1916年にはマサリク、ベネシュとチェコスロバキア全国評議会を設立。この年にチェコスロバキア軍団を創設。指導に当たります。1917年には副議長になり、マサリクとベネシュを三国協商のトップの一人である仏ブリアン首相を紹介しております。


1917年にはフランス最高峰の勲章、レジオンドヌール勲章を受章。シュテファーニクは1918年10月に来日し、11月に離日しております。歴史で学ぶシベリア出兵ですが、日本が何のために出兵したかほとんどの方は知らないと思いますが、ロシア白軍の味方していたチェコスロバキア軍がシベリアで閉じ込められ、その捕虜らを救済するのが出兵の大義名分でした。来日中、そのチェコスロバキア軍団の救済を日本政府に訴えたそうです。大正天皇にも拝謁し、京都も観光。


1919年1月にはロシア経由でフランス及びイタリアに行きます。全ての交渉を終えたシュテファーニクはイタリアからイタリア軍用機で母国に戻る途中、1919年5月4日に現在のスロバキア領内で墜落事故に遭い、亡くなられます。享年38歳。ハンガリーと領有権争いしていた土地だったので誤射や各種陰謀説が浮上しましたが、最新の調査では同乗していたイタリア人パイロットの人為的及び機体の製造ミスが有力だそうです。


スロバキアの首都、ブラチスラバの空港は現在シュテファーニク空港という名称になっております。因みに空港のスリーレターコードはBTSです。

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